世界的にも幅広く展開される有名ブランド「SACAI」とは一体
「SACAI(サカイ以下表記)」とは1999年、デザイナーの阿部千登勢により設立された日本を代表するブランドであり、日常の上に成り立つデザインをモットーにスタンダードなものにひねりを加えたデザインが特徴的で、異素材とのミックスやディテールにこだわったアイテムで男女ともにファッション業界からも高い支持を得ているとされています。
2006年にはディエチ コルソコモ コム デギャルソンのエクスクルーシヴカプセルコレクション「サカイ ジェム」、ランジェリー・ホームウエアーライン「サカイ・ラック」もスタートさせ、2009年よりメンズラインをスタート、その後2011年より発表の場をパリに移し日本を代表する世界的ブランドとして躍進を続けています。
また特に海外展開されている売上高は、この数シーズンを続けて前季比120~130%の成長を達成し2014年決算では、小売価格での売上高が100億円を超えたとされており、売り上げは5年間で実に8倍になったと言われています。
ブランド設立前に働いていたコム デ ギャルソンの様に、大々的な宣伝は行わずセレクトショップやスタイリストからの高い評価や雑誌の紹介、サカイユーザーによって書き込まれた口コミで人気が広がったとも言われており、2006年sacai gem(サカイ ジェム)をスタートさせ「10 Corso Como Comme des Garçonsエクスクルーシブ」のコレクションで「10 Corso Como Comme des Garçons(東京)」と「Dover Street Market(ロンドン・東京)」のみで現在は販売されており、2006年9月からは「日常の上に成り立つデザイン」という言葉をコンセプトとし、サカイの考えているエレガントな大人のためのランジェリー・ホームウェアライン「sacai luck(サカイ ラック)」を開始。このラインではリラックスしたシーンに合わせた1つのコレクションとして展開しており高い人気を誇っています。
「SACAI」として、ファッションデザイナーとしての歴史と沿革
岐阜県に生まれたサカイのデザイナー、阿部千登勢の実家は母親が洋服の仕立屋に勤務していたこともあり、阿部自身も幼い頃より洋服に囲まれた環境で育ったとされています。
人形作りが趣味だった少女がファッションデザイナーに憧れを抱くようになったのは、小学生の頃に目にしたテレビCMにファッションデザイナーが出演していたのがきっかけと言われており、その瞬間に「これになりたい!」と直感したと後のインタビューで語っています。
また「私はファッションデザイナーになるのよ」という確固たる意思のもとデザイナーへの道を歩み始めた彼女は、専門学校卒業後にはアパレル大手ワールドに入社。
およそ2年在籍した後のバブル経済絶頂期の1989年、川久保玲率いるコム デ ギャルソンに転職をしパリコレクションで披露したショウで、「黒の衝撃」を全世界に駆け巡らせ、波に乗るコム デ ギャルソンは阿部にとってまさに憧れの舞台だったと言われています。
パタンナーの職を通し、ニットウェアの企画に携わり渡辺淳弥が統括するジュンヤワタナベコムデギャルソンの立ち上げチームのメンバーへの抜擢を受ける事となった彼女は、ここで培った経験が阿部自身の世界を構築するベースを形作りました。
その後トレンドに左右されず、1から新しいものを生み出すことに真摯に取り組んだとされ、1997年の妊娠をきっかけに退社を選択。1999年、子育てをきっかけにリセットしたことでオリジナルの価値観が詰まった3型のニットを編み出し、サカイを設立。この3型を見たバイヤーから声が掛かりさらに2型を追加。計5型でのサカイのファーストコレクションとなりました。
大々的な宣伝ではなくユーザーからの口コミで人気を博す事となったサカイは、2004年に初めてパリで展示会を開く事となり、2007年では第25回毎日ファッション大賞の大賞に阿部千登勢が選出され、2009年春夏コレクションよりメンズコレクションをスタートさせました。
2009年からは阿部はモンクレール初の日本人デザイナーに抜擢されたことで、サカイの名は更に飛躍する事となり、ローンチした新ライン「モンクレールS」は瞬く間に話題となり売上も好調。
この成功がサカイの実力を裏付ける大きな証となったされ、2011年にこれまでコレクションのショーに参加しなかったサカイが満を持して、2011A/Wパリコレクションで初めてモデルを起用したショウを開催。世界中からの注目は熱く大きな反響を得る事に成功しました。
同年9月には旗艦店となる南青山店をオープンさせ、レディース、メンズ、サカイ ラックの全てのラインを取り扱っておりその人気には拍車が掛かっていると言えるでしょう。